Company Story
𠮷田泰産業の創始者、
現社長の実父である𠮷田 泰啓より
受け継がれてきた
発明付きの青年、吉田泰啓は小さな会社を設立
若干31歳の船出であった。
当時、電気溶接は感電の危険がある鉄ホルダーを
不便な革手袋で使用していた。
泰啓はどうにかして安心して作業ができないか考え、
樹脂皮膜の安全なホルダーを開発。
安全な電気溶接作業ができると評判を呼び、
瞬く間に日本中で売れ、事業は大成功し、
1962年
数千万円の不渡りを被る。
現在の1億円相当のダメージ。
裸一貫から事業を立ち上げた
泰啓にとってはあまりに大きすぎる痛手であった。
身売りも考えた。
しかし今までご贔屓にしていただいた
お客様を裏切るわけにはいかない。
誠実で一本木の泰啓は
卸問屋やたくさんのお客様に励まされ
泰啓は、誰もが嫌がった新興建設会社の販路に着眼し、
建設現場に重い高圧ガスポンベや熔材を喜んで納品し続け、
多くの顧客を獲得した。
そして時代は景気を迎え万博景気に沸く
大阪で着々と資本を築いていった。
大阪の貿易商社に勤めていた現社長・𠮷田 鉃志は
父である泰啓の誘いもあり𠮷田泰産業に入社。
営業部長として
建設機械レンタル事業部を立ち上げる
自ら現場で作業者とともに汗を流し、
ビジネスのヒントを得ていった。
土木工事現場に次々と新技術を導入させ
円形タンク等の大型プラント賃貸にも乗り出し
しかし時代は急変。
事業経営の舵取りが次第に厳しくなる。
そんな矢先、
会長、泰啓死去。享年76歳。
大きな後ろ盾を失う。
そして
最大顧客だった
大手土木建築会社の民事再生を受け
多額の損失を計上。
先代から信頼していた
銀行筋が次々と押しかけ
追加融資の辞退と条件変更を求めてくる。
まさに手のひら返しの変容ぶりであった。
それを見た社員も次々と去って行った。
翌年
この危機的状況を救う
未来を大きく変えた運命的な出会いがあった。
ジー・オー・ピー株式会社の経営者
千田氏の生み出した作業台は
世界最高峰の安全性が認められ、
従来の室内足場の概念を
根底から変革するものであった。
𠮷田は思った。
広くは日本の経済を支える製造現場で
働いている方の命をも守れる。
安全で安心して働ける現場を提供できる。
千田の想いを受け、𠮷田は関西圏に
従来の土木工事の現場から
この最高の製品で建築に本格参入ができる。
父譲りの起業家魂に火がついた。
しかし誰もが否定的だった。
そんな矢先、二度目の不渡りが会社を襲う。
致命的だった。
𠮷田は翌朝一番に千田氏に連絡した。
千田は言った。
弱り目に人は離れてゆく。
勝てば官軍がビジネスの世界だと思ってきた。
しかし、目の前の将来性だけを信じてくれる人がいる。
涙が止まらなかった。
千田氏のいうことに賭けてみよう。
できるすべてを投入していこうと思った。
そして、アルミ製可搬式作業台SGペガの
ゼミコンに対する
レンタル事業展開に大きく舵を切った。
こうして、奇才千田氏が次々と世に出す
安全な作業台の数々をメーカーと共に広げることで、
父泰啓が若き日に抱いた安全への想いと
メーカーへの想いがまさに実現することとなった。
確かな商品と、差別化されたサービスで
3期連続で粗利70%も果たし、
いよいよ事業の拡大を目指す。
ここには50年の歴史と
そこからさらに新しい未来を創る
エネルギーが存在する。
私たちは、
今までの常識を根底から変えなければならない。
裏方で人命を守るセイフティエンジニア
彼らは飛行機の整備士と同じくらいの
使命をもって資材のメンテナンスを行う。
ゼロ災害のアイデアを伝えるセイフティプランナー
ひとつでも多くの作業現場に私たちの
製品と考え方を広げ、安全な環境を作る。
「人」を粗末に考えるなら
私たちは必要ないかもしれない。
しかし、私達は「人」を一番に考える。
人を失っていい仕事とは言えない
人を傷つけて何かを成し遂げては意味がない。